2024-09-14
久しぶりに井上ひさしの本を読んだ。新幹線での旅行でパソコンが荷物に入らなかったので時間つぶしに古い文庫本を押し込んだのである。スマホは小さくて長時間読む気にはなれない。
井上ひさし「自家製 文章読本」(新潮文庫、S62年4月15日印刷、4月25日発行)という古い本である。(発行日が遅れたらどうしたのだろうか?最初から疑問だらけの本である。)
一回は読んだはずだが、全く内容に記憶がない。最初から捧腹絶倒なのだが(漢字の書き取りテストで、処女航海が処女公開。祖国が粗国、住まいが巣まいと回答した例があり、かな漢字変換が当時の中学生の方が進んでいたようにも見える)、多分、ハナモゲラ語の紹介のカタカナ長文で読むのを諦めたのかもしれない。(若年性アルコール性認知症の可能性もかなりあり)
この本のプロローグでは、書き言葉とは、人類が今も克服できない時間というものを一瞬にして固定し、歴史の時間の流れを跳躍できる文学として、「閑さや岩にしみ入蝉の声」が採り上げられている。山形出身の井上らしい。
ところで、本文にはいろいろ文章の奥義が書いてあり、主題は、どのように文章を書くかである。
志賀直哉の「城崎にて」を参照しつつのちの文豪や評論家が「話すように書け」という良い例だと薦めておきながら、本人たちの小説は全くそうではないと三島由紀夫などを揶揄しているのが面白い。
しかし、井上ひさしは文豪たちの文章読本に書かれている「話すように書け」という秘訣自体が間違いで、「話すように書いてはいけない」とへそ曲がりを辞任しつついろいろな例示をしながら何度も強調している。
欧米文学ですら、同じページに同一単語を載せないように注意していた文学者がいたそうで、見た目自体が重要なのだそうである。
また、文体とは何かという視点で引用している、丸谷才一の文章読本の「気取らないふりをして気取るということ」という文章も印象的だ。
本雑文はそのいずれも及第点には遠く及ばないが、井上ひさしの後輩としてちょっとコメントを許していただけるなら、「話すように書いてはいけないが、聞けるようには書かなければならない」という心得はどうだろうか。
赤ちゃんは言葉を覚える際に、どうやって周囲の音声から言葉が意味するところを脳内で把握し、しゃべるるようになるかという異常に難しい学問分野があるそうだ。最近は、脳波や脳内の血流の分析などからも研究が進んでいるらしい。それがAIの開発にも応用できるような時代となっている。
その赤ちゃんの言葉認識の最初の仮定で、しゃべる前に親の言葉を聞き取りどのようにその言葉が言葉として意味しているのかを把握するには、音声の中の音の間を認識することが重要らしい。
それなら、「書き言葉もまずは聞けるように書かれていることが重要だろう。
即ち、脳内でその文章を暗唱した場合に、自分が聞き取れるようになっていなければすんなりと頭に入らない」悪文ということになる。
これがこのエントリーでいいたいことであるーが今、自分で上記の文章を暗唱してみて以下に聞き取りにくいか反省しきりである。
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