2022-12-08
(なお、ある地方都市の日帰り温泉では、受付において、男女を見た目で区別して、男子又は女子の浴室のロッカーキーを渡していた。見た目だけでどうして区別できるのか常々不思議に思っていたが、先日、謎が解けた。やはり、時々客から男女を間違っているとクレームがつくそうである。)
一方、トイレはやや問題が複雑である。欧米では、トランスジェンダーも考慮し、男女の区別をなくしたトイレもあるようだ。また、日本でも小さな居酒屋はトイレが一か所だけなので、区別しようがない。居酒屋で女性の直後に同じトイレに入るのは多少気まずい気はするが。
逆に、中途半端に男女の区別のある公共トイレが問題である。しかし、多少気まずいだろうが、トランスジェンダーの方は自分の好みと公序良俗に従い、問題が生じないと思われるほうのトイレに入り、その場で必要なら個室に入るのはどうだろうか。この程度の制約を受け入れるということで共同生活と性同一性問題の両立を図れるのではないだろうか。
見た目の男女の区別をする必要が無いのであれば、性別変更における手術は不要である。また、最高裁で問題となっている性同一性障害特例法の生殖機能喪失に関する手術規定は、法律上、女となった生物学上の男が子を女との結婚で設けた場合の社会的混乱を心配するものであろう。しかし、いまでも婚外子は生まれており、フランスでは女同士が子供を実子として育てる例もある。21世紀の現在、修正すべきは法律のほうであろう。
真の問題は、社会生活のいろいろな場面で男女差別があることである。男女が、或いは、性的少数者が社会的に同等となれば、子育てをするカップルが、男と女であろうと、少数者の性別区分の二人であろうと、実質的な不都合がない社会に移行できることにる。それが長い生物学的歴史を抱え、発生学上の性的問題を抱えながら、少数者も含む自由と民主主義を両立させるべきヒト社会の進化の道である。
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